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MAY
2023

ただその優しさが嬉しかった

(当時47歳)

去る者は追わない。

どんなに残っていてと思っても、去る者は追わない。
どんなに残っていてと思ったら、忘れない、と誓う。

そうすることで、自分の感情が乱れることがないようにセルフコントロールしている。

ところが、最近この感情が乱れることがあった。
はじめてのことではないが、最後はいつか分からないくらい前のこと。
世界との距離感とか、相手の立場に自己を入れずに感じられるとか、自分と価値観が近しいと勝手に共感した相手とか。能力とか理屈ではなく、直感とか。性別や年齢を超えて、無条件にリスペクトとか。

過去を振り返って、そういう人たちを思い出してみる。

そういう人たちは相手に協調性を持って接することができるので、実際のところは思い違いであったりすることが多い。それなら仕方がないのだが、そういう相手には、伝えたいことを伝えられなかったり、間を読めずに空気を重くしてしまったり。共感するあまり、勝手に舞い上がってしまったり。まぁ、やらかしてしまうわけだ。そんなときは、己の不甲斐なさと激しい後悔が、果てしなく心に暗く深く広がり、いたたまれなくなる。
一度やらかしてしまったあとは、弁解する余地はなく、相手のシャッターが降りてしまったことを悟る。それでもノックしてしまうのだが、まず返事はない。誤解を解きたくても、空回りして余計にこじらせてしまうのが怖くて何もできない。

やらかした数々を思い出すだけで、呆れて苦笑いするしかない。

でも、感情の乱れは「喜怒哀楽」がみなぎるから、嫌いじゃない。
歌を歌っていたときを思い出す。そこに込めた歌詞を思い出す。人の曲を聴いて、歌詞を聴いて、胸がギュッと締め付けられる。光と影。忘れていた感覚。

想像以上に、何気ない一言に疲れが吹っ飛ぶほどの力になったり、分かっているのに待ってしまったり。完全に自分らしさを見失っている。残念ながら、今回もやらかしてしまった。そしてシャッターが降りる瞬間を目の当たりした。それでも気づかないふりして、ノックしてしまうわけだが。

いつもなら、これで終わる。ところがまさかの返事あり。シャッターは閉じたままだけど。
それはそれで申し訳なさもあって。ただその優しさが嬉しかった。
だから、ぼくの一喜一憂する感情は不甲斐なさと後悔の海に投げ捨てることにした。

「あたしの感情をあんたの被害妄想で勝手に決めんな」
あぁ、それでひどく怒られたこともあったな。

そう、これは完全なぼくのパラノイア。

後日、そうやって投げ捨てた感情を、知らない間に探して見つけてくれたときは、申し訳なさと感謝しかなかった。

そんな価値観の近しい感情と感情がぶつかり合う関係性が、今回はできる気がしたのだけど。
とことん落ち込んだあとは、これからもまた探し続けるだろう。

The beautiful things never die.

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